岩部金吾会長が法政大学経済学部に入学したのは昭和二七年四月、二年間の浪人時 代を経て法政を選んだのは当時の総長である大内兵衛氏への憧れからだった。 「大内先生が非常に私の父と風貌が似ていてね、それで憧れや親しみのようなものが あって」  九十歳で亡くなるまで勉強熱心だった父に、幼少の頃から日本文学や世界文学全集 を揃えてもらい、多くの書物に触れる環境で育った。その経験からか、小説家や新聞 記者を目指したこともある。 「新制高校時代、初代生徒会長をやっていました。まあガキ大将みたいだったんだけ ど、その時に文芸雑誌や新聞を出したりしてね」

大学に入学する以前は広島県に住んでいた。旧制中学時代は全国弁論大会に学校代 表で出場し、団体賞を受賞したこともある。また遊びも大いにした。 「戦後で物がなかったから子供の頃は、毎日のように泳いで遊びました。春から秋ま で泳ぎ、夏は飯盒やテントを持ってキャンプをしたりね。お金がなくてもアウトドア で遊べることはいいですね」

 こうして少年時代は文武両道のごとく学問に遊びに精を出した。同時に戦後の学制 改革の時期に当たり、旧制と新制の切り替えにより高校は新制高校に入学。そして大 学合格を機に上京した。 「大学時代は経済学部だけれど心理学のゼミを専攻していました。心理学は『人生の 機微』と考え魅力を感じてね。当時、文筆家を目指していたこともあり興味が湧いた んですね」

 また、学生時代はアルバイトをしたり、様々なジャンルの本を読むことで多くの知 識を得た。 「僕はおそらく同年の人の読書量よりは超えていたと思うよ。ただ『勉強している』 という姿勢を見せるのが嫌でね。その代わり陰で一生懸命努力しなければいけない。 今でも、会長挨拶などで人前に出るときは、その場の雰囲気で話を変えたりするけ ど、前から話をどうしようかと準備すると雰囲気が全然違ったら喋れないでしょ。こ れをするには多くの教養を必要とするから、常に知識を頭の中に蓄えておかなければ ならない。それでも、努力しているように見せるのが嫌いだからいつも遊んでる格好 している。学生時代からそれは変わらないね」

 昨年の十一月、経済学部同窓会の忘年会が開催され、会長自身が同窓会報や新聞に 掲載されているのを見て、地方からも沢山の友人が来た。 「その時久しぶりに同じクラスの友人に自分はどんな人間だったのか訊いたら、二年 浪人しているせいもあるのか、兄貴分で、全部自分で切り回しているように思われて いて。『変わってた』と言われました」  旧友の良い意味での、変わっていたという言葉は全て自己責任で物事を始める所か ら来る。 「『社会が悪い、環境が悪い、人が悪い』と何かのせいにはしないようにしてます。 大人と子供の違いは、大人は分別がつくことだと思う。色々な定義はあっても人間が 一番大切にしなければいけないのは『自主性』。そして『自治』です。字のごとく自 らが自主的に行い、そして自分で治めていかなければならない。そして、何か問題が 起きてもそれは結局自己責任なんだよ」

 卒業後は東京新聞でアルバイトをする傍ら業界紙にゴーストライターとして執筆す るなどして生計を立てていた。また製造業を営んでいた父の紹介で化粧品会社の宣伝 部に就職し、社長の意向を原稿にしたこともある。 「しかし、その人の人となりの考え方ってのは、よく勉強しないと学校出た若さでは 書けないんですよ、さっき言ったように自己責任っていうのもあって、物書きをやっ ていたけど、きちんとした仕事をやろうと思い中途入社で文化シヤッターに入りまし た」  昭和三十四年十一月、文化シヤッター株式会社に入社。「人生の師」と仰ぐ人物は 二人いるが一人は父で、この時出会った文化シヤッターの創業者・関本亘さんが父と 並ぶもう一人の人生の師となった。 「これは思い出のエピソードだけど、出張先の旅館で社長の方が朝早く起きて自分は 風呂に入ってから『岩ちゃん、時間だよ』なんて言いながら起こしに来るんですよ。 ノンキャリアで創業者だった社長の思想や考えには尊敬させられるものばかりでし た」  色々な思い出と共に人生の師である創業者には多くのことを教わった。この出会い は、今後の人生にも大きな影響を及ぼすものとなった。 昭和四一年に、社長室長から技術部長に就任したこともあり、通産省後援で研究開 発のための世界一周旅行に参加した。アメリカなどの研究所を訪ね、実際に見学して 研究開発の在り方やシステムを学ぶ。

  「私が技術屋でないだけに、まず技術開発の人達が如何に働きやすい環境を作るか苦 心しました。『三現主義』を大切にしてたんだけど、三現主義とは現実・現場・現物 のことね。机上の仕事を避け、常に自分で現場に出向き、現物を確認するようにしま した」  しかし開発が行き詰まることも避けて通れない道であった。「その時の施策が、技 術部員に当時の千円を資料費として渡し一週間出社に及ばず、自分の好きなように研 究し、その成果をレポートするよう指示しました。会社ですから、技術部だけ勝手に 出社しなくてもいいというのは問題になりましたが、要は成果を出すために、ダイナ ミックに色々な方法を自由自在にやったものです」

 岩部氏自身もまた、文化シヤッターの元祖を築いた。ヨーロッパで住宅用の雨戸を 見て、その発想を日本に持ち帰り、飛躍的な改革を遂げた。 「これは日本的にアレンジすればいいなと思いました。もちろん日本の住宅構造に合 わせたり、消防法や建築基準法も考慮してね。開発を重ねて、大変な努力をしまし た。あくまで自主開発するという姿勢を貫きました」

 二人の人生の師から学んだ教訓が仕事にも生きた。昭和三十四年に入社して現在の 代表取締役会長まで至ったのは、自己責任と努力の姿勢を忘れなかったからだ。 「学生である君達に伝えたいのは、これは社員にも話してるけど失敗があるからこそ 人生ですよね。で、相撲の世界に例えて言ってるんだけど一場所十五日でいけば、八 勝七敗でいけば少しづつ上に上がっていけるんだよ。七敗っていうのは失敗だけど失 敗を恐れて何もしないのは一番つまらない。だから挑戦しなければね。人生っていう のは開拓だからね。自分の人生は自らで切り拓いていかなくては」。

 

 


  昭和七年広島県生まれ。昭和31年法政大学経済学部卒。昭和34年11月、文化シャッター株式会社に入社。昭和39年五月取締役就任。平成九年6月代表取締役会長就任、現在に至る。  

 


   


 

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