「二十歳の青春真っ盛りに病気で挫折したのはつらかったけれど、逆に雑草の強さみたいなものを持つことが出来た。それが仕事にも生きて、今の私がある。それまで、気弱で余り芯が強くなかった自分が、この挫折で打たれ強くなった気がしますね」  木山俊平会長が法政大学法学部に入学したのは昭和二八年四月。しかし学生生活は長くは続かず、一年終了時に喀血、肺結核と宣告され、郷里の岡山で二年間の療養生活を送る。  「その頃の肺結核は日本人の不治の病だった。特に私は重症と言われてね。高校までの明るかった人生が一気に暗転しましたね」  中学・高校は野球、陸上で活躍した。短距離選手として県大会で二位になったこともあり脚光を浴びた少年時代だった。そして大学入学後、大病を患い人生最大の挫折を味わった。

 しかしその後神風が吹いた。  「ちょうどその頃、特効薬『ストレプトマイシン』が開発されて、奇跡的に回復することが出来ました。これは、幸運としか言い様がないです」   二年間の休学を経て、大学に復学する。ところが制約も多く、スポーツや夜更かしは厳禁、普通の学生のように自由に学生生活を楽しむことも出来なかった。残りの三年間は心に挫折の後遺症が残り、将来の展望も見出せなかった。  「サークル活動と言えば、スポーツが出来ないから文芸研究会に入り、私小説の何編かを発表したりして学生生活を過ごしました。だから大学時代は特別な良い思い出がないですね」

   卒業後、マスコミ志望であったが父の反対もあり、大手数社の入社試験を受けるが敗退。昭和三四年は就職氷河期に当たり、郷里に帰るつもりで横浜に住む叔父に挨拶に行く。そこで三菱鉛筆の紹介を受け、縁故で受験。その年は大卒採用一名だったが、合格した慶応大の学生が他の企業に進んだため、補欠で入社することになる。  「ここでも運命を感じましたね。人間には運やツキというものがあると思うよ。大病をして挫折を乗り切った私へのご褒美なのかなと思いました。私は逆境の対処の仕方で、その後の人生は決まると思う。苦しみを乗り越えていけば、そこにいいことが待っているんだから」

 入社後、営業部販売課に配属され、北海道地区の担当となる。しかし初めの四、五年は思い描いていた仕事との落差に悩む。  「伝票処理や事務処理といった仕事が向いていなかったのか、鬱々としていたね。しばらくの間、不本意な時を過ごしました」  昭和三九年、新しい営業部長が着任。部長は個性に合った仕事を与えてくれ、本領発揮のチャンスを手にする。内容は、販売促進、販売企画だった。まず全国優秀販売コンテストを実施し、全国上位約三五〇店を招待し、大成功を修める。因みに、この招待は当時出来たばかりの「ニューオータニ」の宴会第一号である。

 「これが一つの転機でしたね。私の得意な分野の仕事を次々に与えられたんですよ。ホテル、テレビ、マスコミ、元々そういう業界に入りたいと思っていたからね。それからとんとん拍子に引き上げられていった感じですね」  それから大阪支店設立時、支店次長として大阪へ赴任。ここでは関西商法の勉強に励んだ。

 次いで販売課長に就任。そして販売会社新設に全力を注いだ。この時手がけた販売会社は千葉・多摩・湘南・群馬・茨城・長野等である。  「当時は右肩上がりで、販売会社を作るほどシェア(売り上げ)が上回る時代だったから、当時手がけた販売会社は今でも分身のような愛着があるね」  昭和四八年、営業販売課長から一転、鉛筆製造課長に任命される。メーカーの最重要部である製造課を再生せよとの辞令である。  「それまでの製造課長とは、現場では雲の上の人であり、近づきがたい酋長のような存在でした。だから『営業出の素人が来て何ができるか』と私の着任前の現場は不安と反発の空気でね。そこで考えた末、着任の日、現場のボスとスタッフで、終業後早速、酒盛りをしました。その場で『全て責任は私がとるから、思い切り知恵と経験を貸して欲しい』と率直に訴えました」

 努力はこの他にもある。社員からパートに至るまで現場の約百六十名全員の氏名を、部屋の天井に紙を貼って暗記した。そして現場を巡回した時、相手の名前をフルネームで呼びかけ、一人一人に話しかけることもした。また、それまでの経験と勘主体の現場に、産業工学技法を取り入れ、合理性と効率性を追求した。その結果、一年後三八名の人員削減が計れ、それまでの製造課が一変した。  そして昭和四九年、山形工場長に任命される。  「それまでの山形は、長い間、現場班長が絶対の権限を持ち、女子はまるで歯車扱いだった風土を変えるために、就任早々私は、思い切った、若手の男子と女子登用の方針を発表しました」  この時から山形工場の改革が始まった。かつてない方針に反発もあったが、皆の志気も高まり、予想以上に生産性が上がる。

 山形工場長就任から僅か十ヶ月に当たる昭和五〇年五月、三菱鉛筆東京販売株式会社社長となる。  「ここでも私が営業出身だと知らない得意先の小売店からは、『山形工場長出身の若僧に、大東京の販売会社社長が勤まるものか』と言われ四面楚歌の出発でした。だけど、捨てる神あれば拾う神ありで、それまで前社長の方針に総反発していた代理店の長老達が逆に、私の強力な味方となり支持者になってくれました」  こうして当時経営不振だった会社の再建が始まった。ここでの施策は、これからの時代を見越して量販部を新設。更に新しい販売開拓に、「ギフト・ノベルティ部門」を増設。また、営業セールスに女子を積極的に採用した。

 「やっぱりこれからは女性の時代だと思ったからです。特に文具っていうのは、色んな楽しさがあるわけで、女性の関わりのあるジャンルなんです」  これは業界にも反響を起こし、当時の女子セールス第一号はその後本社に登用された。そしてその女性の企画が見事ヒット商品を生み出すという成功もあった。

 こうして昨年十月に行われた株主総会までの二五年間、社長の職務を経て、現在の会長まで至る。 「私が二五年間勤められたのはもちろん社員、得意先のお陰だけれど、社長就任時から本社を辞めて私に付いてきてくれ、それ以来絶好のパートナーとして片腕になってくれた現社長なくしては今の私は語れませんね」  これまで、学生時代や仕事上での数々の挫折があったが、それを乗り越え努力と前進を続け、その一方で、協力者への感謝を決して忘れなかった木山氏は、「人生の勝利者」と言えるだろう。 (西嶋 恵)

 

 


  木山俊平(きやま・しゅんぺい)昭和九年青島生まれ。昭和三四年法政大学法学部卒業。同年三菱鉛筆株式会社入社。販売課長、製造課長、山形工場長を歴任。昭和五〇年三菱鉛筆東京販売株式会社社長就任。平成十一年同社名誉会長に就任し現在に至る。他に三菱鉛筆株式会社取締役から現在相談役。ユニ産業株式会社・ユニ物流株式会社顧問。法政財界人倶楽部監事。法政大学理事。  

   

 

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