「当時は食べることにさえ必死の毎日でした」
 昭和二十年。法政大学予科時代、戦争の真っ只中だった。現在の法政二高がある川崎の校舎も空襲の被害にさらされ、学生は全員、勤労動員で川崎の東京兵器という軍需工場へ動員されていた。
 「その当時、動員先の会社の食堂は丸太の柱にトタン屋根で出てくる物はどんぶりにお湯、味噌か醤油を入れてそこに豆とお米が浮いているだけでね」
 腹が減り、「新型爆弾が広島に投下された」という報道を知った頃、ことの悲惨さなどに想像力が働かず、空腹のあまり倒れそうなほど気分が悪かったことだけをよく記憶している。
 住居は父の知り合いを介して京橋にある八階建ての倉庫の、倉庫番用の部屋に住まわせてもらう。部屋の窓からは銀座の街が丸見えだった。よく写真で見るような空襲で焼かれた街は今でも目に焼きついているという。そんな時代に生きていたある日、突然終戦を知らされる。
 「百キロ以上の場所へ行くには切符の制限があって、行列して買わなければいけなかった。菊名の駅で切符を買おうとしていたら、周囲が騒がしくてね。何だろうと思ったら玉音放送で敗戦を知ったんです」
 焼け跡の中で学校が一からの再開。存続するかも危うかった。下宿先は京橋から中野、九段下にあった学生会館と移り、下宿先は転々とする。
 「学生会館ができるまで、実家の高崎から通ったこともありました。始発に乗って、群馬、埼玉、東京、神奈川と一日に四県往復することになる。八時半の始まりなんだけど、僕はいつも遅れて九時頃入ってきてね。ある時試験があって、間に合わないから高崎発午前三時のがあったんだけど、友達が泊まりに来いよと言ってくれて。そこで楽しく勉強した思い出なんかもあります」
 友人達に助けられた思い出は多い。また、沢山のよい教授にも恵まれる。
 「鍋島教授という方がいて、佐賀の鍋島公爵家の一族なんです。その方を通じて親族に古河家というのがあって。大学の近くにその古河財閥の家があってね。その家で家庭教師を募集することになったんですよ」
 そこで立候補して以来、学生生活を古河家で過ごす。他の学生のように、食べていくために必死でアルバイトする必要はなかった。
 「僕は食うことに全然心配がいらなかったんですよ。古河財閥の家でお世話になっていたからね。帰ったら家庭教師として勉強を教え、学校では自分の勉強に没頭できました」
 大学では法学研究会の仲間と研究室でお茶を沸かしながら語り合ったりして過ごした。共に司法試験を目指す仲間達である。それ以外の時間はほとんど図書館で勉強して過ごす、そんな毎日だった。
 最初の司法試験は、二年の時に法学部研究会の仲間と受けに行く。
 「民訴の所でね、ちょうど制度が変わった今までにない所が出題されたんですよ。六十点くらいで合格なんですけれども、自分で採点したら五八点くらいなんです。本当に悔しかったですね」
その年は不合格に終わってしまった。再び勉強を続けていた三年の夏、法学部研究会の仲間と五、六人で過ごしていると、法社会学で教鞭を振るっていた教授に声をかけられた。
 「君達そんなに努力しているんだから必ずうかるよ。傾向とか必ずあるんだから、好きな先生を呼んで教えてもらいなさいよ」 教授は各分野で活躍している教師を揃え、司法試験特別講座を開いてくれた。
 思わぬ助けを得て、その年の秋、司法試験に合格。在学中に合格できたのも、教授の協力のおかげだという。意外なのは、かつて法社会学の講義の時「司法試験を目指す学生には私の授業はためになりませんよ」と言った教授だったこと。
 「自分の授業が司法試験に関係ないと言った先生が、ちゃんと面倒を見ていてくれたんですね。当時は教師も熱心だったし、教師と生徒の間が、人間と人間との間係が、非常に良かったんです」。
 一方、予科時代の担任、山口氏は生涯の師となった。
 「なんと言っても一番薫陶を受けたのは、予科時代二年間に渡りクラス担任としてご指導を頂いた山口諭助先生です。先生は講義が終わってからもクラス全員を自宅に招待し、よもやまのお話をして下さりました。学生の身の上などもよく把握し『誰それ君は家庭の事情で成績が上がらないようだから、君たちが応援してやりなさいよ』などと助言してくれました」
 卒業後も折り目、節目には先生宅を訪ね、話を伺うのを楽しみにしていた。師が九四歳で亡くなるまで、クラス仲間の交流は続いた。
 司法試験合格後、研修を終え最初に赴任したのは釧路地裁だった。ここでも沢山の法政出身者に支えられる。
 「当時の釧路の有力者は法政一色で、商工会議所会頭、副会頭、事務局長が全て法政の出身者で釧路の経済界を牛耳っていました。人口六万人の町の三分の一くらいは十条製紙のある『鳥取町』に位置していますが、そこの工場長も法政の先輩で。これらの人々にご親切に歓迎していただき、色々と教えを受けることが出来ました」。
 法政のカラーは法曹界にもよく現れているという。
 「法政の後輩にあたる裁判官の判決を見るけどね、反骨精神旺盛で、どこか共通点があるんだよね」。
 様々な地で判事の任務を経て、現在では弁護士として活躍中。
 「仕事上、残酷な状態に巻き込まれている人たちなどの話を聞くと心苦しいけれど、人を救うという点ではやりがいがあるね」
 常に公平で冷静な視点を持ち、かつ生身の人間と接するゆえの心の通じ合いを大切にする。法曹界での職務は柳澤氏の「天職」だ。その全てのきっかけは法政大学で過ごした日々である。

(西嶋 恵)
次回から「交遊録」は東和宏が担当します。

 

 


   昭和二五年司法試験合格、二六年法政大学法学部卒。二八年〜平成六年判事歴任(横浜、前橋、浦和、東京各地家裁及び東京、高松、大阪各高裁)平成六年、弁護士登録、現在に至る。 他に法政大学校友会会長。  

 


   


 

COPYRIGHT(C)法政大学新聞学会

このホームページにおける全ての掲載記事・写真の著作権は法政大学新聞学会に帰属します。

無断転載・流用は禁止します。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送