「あの涙の会見は自分の本当の姿が出たものだった」

 平成九年十一月二十四日。日本四大証券の一つ、山一證券が自主廃業に向けての営業休止を決定した。当時、社長の職にあった野澤正平氏は会見の場で涙を流しながら頭を下げた。

 「あの涙には二つの意味があった。一つは、会社を良くしようと思って頑張ってきたがだめだったという悔し涙。もう一つは、関連会社を含めて約一万人の社員を路頭に迷わせることになり、他の会社に一人でもいいからうちの社員を雇ってくれという訴えの涙だった」  野澤氏は昭和三十五年に法政大学経済学部に入学した。法政には以前兄が通っており、憧れがあったという。長野県で生まれ育ち、高校卒業後は地元で三年間農業をしてからの大学進学だった。そんな野澤氏にとって、当面の目標は「遅れた三年間をいかに取り戻すか」だった。そのために必死に勉強した。

 「前の席に座るために、授業には毎回早く行っていた。ただ、どうしても行けないときがあって、そういう時は仲のよい友人を飲みに連れていってノートを貸してもらっていた。でも一晩で返す約束だったから、酔った頭で必死に書き写していたよ」  アルバイトは土曜の午後から泊まり込みでトラック運転手の助手をしていた。野澤氏は遊びに使うお金を得る以外に、もう一つ大きな目的を持ってアルバイトをしていた。それは、できるだけ多くの社会人とふれあうことだった。

 「私の場合、大学での勉強はその後全て役に立ったとは思えない。大学時代の社会人とのふれあいが、そして社会人からたくさんの話が聞けたことがその後の人生で大いに役に立った。世の中の人を見て人への仕え方、使い方を覚えたりできたからね。大学時代は専門分野を学ぶことも必要だが、半分は人間形成の場だと思うね」  社会人の年輩の人とも自腹を切って飲み屋に行き、話を聞いた。

 「話を聞きながら、こういう世界もあるんだな、といろいろ参考にした。どんな世界の人でも、自分の知らないことを知っている人は師匠だと思って、話を頂戴したよ。これが後になって生きてくるんだよね」  当時の人とは今でもつきあいがあるという。

 一般社会で一人でも多くの人に会って話をすることが自分のサークル活動だと思い、サークルには入らなかった。ゼミにも入らなかったという。  法政を卒業後、山一證券に入社。当時、証券会社は優秀な学生しか入れず、野澤氏は見事三年間の遅れを取り戻した。幹部候補生として一年間を過ごし、その後関西地区の支店に配属される。その直後に、会社が経営の危機に陥り、日銀特融を受ける。  「非常にきつかった時期だったが、やめたら恥だと思い、石の上にも三年いてやろうという気持ちで頑張った」

 商いがなく、苦しい日々が続いた。新規の商いを獲得するため、毎晩顧客の家を訪ね回った。  「毎日終業時刻になるとすぐに会社を飛び出して顧客の家へ乗り込んだ。時には一升瓶をもって行くこともあったよ。行っても商売の話なんかしないんだよね。まず自分という人間を買ってもらい、信頼され、仲良くなることから始めた」

 野澤氏は、いつでも相手への配慮を忘れなかった。会社を訪問する際には、秘書への手土産を忘れず、時には自腹を切って顧客に貢献することもあった。

 「やっぱり人間だから人と人との付き合いをすごく大事にしないとね。どんな相手でも誠意を持って対応しなければならない。ちょっとしたことが大きな仕事につながることもあるからね」  そんな努力が実る頃、会社は危機を乗り越える。昭和四十五年に大阪万博が開かれ、親しい警察関係者からフリーパスをもらった野澤氏は、よく顧客の家族を連れて案内したという。

 「他の人が何時間も待っている中で、フリーパスを持っていくとすぐに入れるから気持ちよかったね。少々申し訳ない気持ちはあったが、社員には絶対に貸さなかった。せっかくの好意でもらったものだから、お客様に還元しないとね」

 その後も各地の支店や本社に勤務し、主に法人相手の営業を行った。本社の営業企画部時代には、若い社員に礼儀作法から営業の方法まで幅広く指導した。また、東京本部長の頃は支店長から話を聞くだけでなく、現場にいる社員などからも良く悩みを聞き、社員からの厚い信頼を得た。そして、平成九年八月に社長に就任。しかしその約百日後に会社は自主廃業に向けて営業休止を決定する。  「あの涙の会見は海外で批判を浴びたようだけど、外国人が何と思おうが自分は日本人だという思いがあったので、気にならなかったね」  自主廃業に向けて営業休止を決定した後の一番の心配は、社員らの再就職だった。

 「百社以上に電話して、『ご迷惑をかけて申し訳ありません。うちの社員を雇ってくれませんか』とお願いしたよ」  野澤氏の人情に厚い面を知る多くの会社が、不況の中にも関わらず多数の元社員を採用してくれた。今でも本当に感謝しているという。ある名古屋の会社では、リストラを考えていた最中だったが、野澤氏の頼みならと、二人を採用したという。再就職率は約八十六%にまで達した。

 社員らの再就職依頼活動と並行しながら、毎日出勤して残務整理に追われた。そして平成十一年六月に正式に破産宣告を受け、社長の役目を終えた。

 「それからは家にこもっていたが、気分は晴れなかったね。教師や証券会社など、いろいろといい条件で誘いが来ていたが、すべて断っていた」

 その後しばらくして、名古屋支店長時代のお得意様からその会社の関連会社の経営陣に加わって欲しいと依頼があった。  「その社長は社員思いで、会社経営について一貫した考え方を持っていてね。よしやってやろうと思って引き受けた」

 平成十二年三月にソフトウェア関連会社(株)シリコンコンテンツの代表取締役会長に就任。現在では社長も兼任し、営業活動の傍ら、社員を統括している。

 縁を終生大事にしてきたと話す野澤氏は、法政に入れたのも何かの縁と話す。

 「自分の同期では法政から四人入ったけど、優秀で粘り強くて、誰もやめなかった。法政の学生には、やるんだったらとことんやってほしい。中途半端はよくないと申し上げたい」  そして野澤氏が繰り返し強調したのがこの言葉だ。

 「いろいろな仲間と幅広く付き合ったほうがいい。話せなくてもいい。相手の話を真面目に聞き、印象に残る言葉があったら必ずメモをする。それが後になって役に立ってくるんだ」  社員思いの野澤氏は今でも元山一證券の顔写真入りの従業員名簿を持っている。元社員らの再就職先を訪れる際は、その写しを持っていく。元社員と会う機会は多く、仲間意識は強い。

 「再就職先の社長に元社員のことをほめられると、やはりうれしいね。今までの人生を振り返って、思う存分やれたと思う。死ぬまで現役でやっていきたい。それが元社員への励みになると思うからね」  多くの問題に直面しても、野澤氏は常に真正面から立ち向かい、困難を克服してきた。現在も絶えることのない情熱を燃やし続ける野澤氏の姿からは、元社員らへの強い愛情が感じられた。 (東 和宏)

 

 


 野澤 正平(のざわ しょうへい)昭和13年長野県生まれ。昭和39年法政大学経済学部卒業、同年山一證券入社。名古屋支店長、大阪店長などを経て、平成九年社長就任。平成11年社長退任。その後、平成12年(株)ハギワラシスコムズ東京支店顧問を経て、現在(株)シリコンコンテンツ代表取締役会長兼社長。この会社では、パソコン間の無料インターネット通話サービスを行っている。情報配信システムを組み合わせる事により、利用者は何時間話をしても無料だ。「ビットアリーナ(http://www.bitarena.com)」と呼ばれるホームページからソフトをダウンロードすると、このサービスを利用することができる。  

 



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