法政大学との出会い

 指宿清秀さんが法政大学に入学したのは、終戦間もない、一九四六年の春だった。

 前年、陸軍士官学校の最終学年を迎えていた指宿氏は、出征する日もそう遠くなかったのかもしれない。 指宿氏は豊岡(埼玉県入間市)で終戦を迎える。その後は、親の住む鹿児島へ復員し、農作業などをして 暮らしていたが、しばらくは「茫然」としていたという。軍国少年であった若者にとって、敗戦の衝撃と いうのはいかばかりであったろうか。

 再び上京するきっかけとなったのは、叔父の葬儀であった。「田舎暮らし、軍隊暮らしが長かった僕に とって、東京というのはやはりあこがれだったんだな。それで、母と一緒に上京したのだけれど、もっと 東京にいたいから、母には先に帰ってくれと言ったんだ。いや、実は海軍兵学校(広島)ではなく、陸軍 士官学校(埼玉)を受験したのも、日本の中心に行きたいという思いもあったからなんだな」。

 氏は市川の叔母の家に身を寄せながら、何をするでもなく、ぶらぶらとしていた。

 ちょうど春を迎えていた。靖国神社に参拝した後、桜でも見ようと外堀の方へと向かっていた。バラッ クの建物と、門とおぼしき物が彼の目に入った。不思議に思い、中に入り、男に聞いてみる。「ここは何 ですか」。「一応、大学です」との答えが返ってくる。男は法政大学法学部有泉教授だった。当時の法政 は自由を取り戻し、貧しいながらも、焼け野原の中で復興への気運が盛んであった。聞けば、復員者向け の入学試験があるという。「法政と言えば、一流教授陣を揃え、東京では、東大に次ぐ大学である」など と、彼に説き伏せられた氏は、次週に迫っていた試験を受け、合格する。

 指宿氏は飛び級で士官学校に入学していたため、書類上の最終学歴は小学校卒業であった。「デカンシ ョ(デカルト、カント、ショーペンハウアー)で半年暮らし」後の半年寝るだけなどと言ったが、旧制高 校の人達は、学問を学び、自分の人生をいかに生きるかと議論していたが、私は士官学校だったから、そ れが無かった。だから、大学生になれただけで幸せだったよ」。

自由な大学で学ぶこと

 一九四六年度経済白書は、国民生活を「たけのこ」になぞらえているが、日本中が貧窮な生活を送って いた。

 指宿氏もいつまでも叔母の家に世話になるわけにもいかずに、阿佐ヶ谷で下宿生活を始め、アルバイト に精を出していた。道路工事、貨物船の荷下ろし、占領軍憲兵隊が接収していたビルで掃除などのアルバ イトもしていた。そして、僅かばかりの賃金を貯めては神田の古本屋街に通った。情報を統制された時代 に育った指宿氏は知識に飢えていた。「唯一趣味と言えば、読書だった。がむしゃらな知識欲で本を貪り 読んだ。哲学、文学、論理学、心理学。一年間読み漁って、やっと落ち着いたんだな。あー、これでやっ と、一人前になる素質ができたんだなって。それで、専門の勉強を始めたんだ」。

 今でも、法政大学は教授一流、学生三流などと揶揄されることもあるが、堀真琴(政治学)、佐瀬昌三、 有泉亨(民法)中村哲(憲法、政治学)等、法学部だけでも、各分野で名を成す教授陣を擁していた。

 刑法の応報刑(刑罰を犯罪を犯した責任とみる)、教育刑(刑罰を更正のための手段とみる)を例に取 り指宿氏はこう言う。 「僕が一番大学で学んだのは、人の意見をじっくり聞いて、世の中の現象を観察するという、ものの観方 だ。物事どれかが絶対的に正しいということはない。大学では、それぞれに真理があることが分かった上 で、己の答えを導き出すことを学んだな。知識は少し勉強すればなんとかなる。重要なのは考え方だな」。

  思考の妙は、他者との対話の中で磨かれる。指宿氏は士官学校時代においても共に席を並べた杉山茂雄 氏(後に法政大学法学部名誉教授・国際法)と知己を得ていた。杉山氏は阿佐ヶ谷に住む指宿氏に「話し ができる環境の方がいいぞ」と言い、自らの寮に指宿氏を招きいれた。切磋琢磨しあう友人の存在があっ たのだ。

  指宿氏は一九四九年に参議院事務局に入局しているが、大学二年次より参議院にて、アルバイトをして いた。「緑風会の山本有三氏とお会いする機会もあったな。緑風会は緑が全ての色の中心で、政治に新し い風を吹かせようとつけられた名前なんだ。僕は山本氏に直接教えて頂いたんだよ」。優れた人物との出会いを通して己を磨き上げながら、指宿氏の目は参議院事務局へと向き始めた。

日本の平和を守るために

 指宿氏が参議院を志したのには、理由があった。飛び級で士官学校に入学していた氏は言うなれば、軍国少年の「エリート」であった。「歓呼の声に見送られて、名誉そのものだった。しかし、実際中身はスッポンポンだった。人生いかに生きるべきかなんて考えてはいなかったんだ」現在、私達大学生がこのようことを考えることがあるだろうか?

 「終戦になって、目からうろこが落ちたような気がした」。知らされていないことばかりだったのだ。「日本をこんなにしたのは何が悪かったのか?政治が悪かったのだ。正しい情報が国民に知らされていなかったんだ。いや、情報を欲しいとも思わなかった。戦争という一つの目的を遂行するために日本は強固な軍隊を作り上げた。そのために必要なのは、批判もできない思考停止型の人間だった」。

 指宿氏はこのような反省にたって、自分が公のためにできることを考えた。二度とあのような災厄を繰り返してはならないと。「だから、参議院入ったら、政治をチェックできると思ったんだ。出世しなくてもいい。これからは、縁の下の力持ちで、政治を支えていこうと思ったんだよ」。

 指宿氏の座右の銘は、「清虚」。人間は、出世をすれば、驕り高ぶってくることや悪に染まることがあるが、いつも清廉潔白であろうという指宿氏の信念がその言葉には込められている。

戦後政治を見つめて

   「堀真琴教授が政治は必ずしもきれいごとですまないと講義されていたのが、印象深い」。  指宿氏は参議院事務局では、主に、本会議や委員会の日程や運営を調整する立場の要職を歴任し、八一年事務総長に就任する。就任の際は自民から共産まで各党から支持されたという。

 「僕らは党略に利用されがちだけど、僕は常に公平を旨としたんだ」。だから、信頼を受けた。時には、議長に「自分の党のことばかり考えてないで」と注意することも。

 「最近は暴力を表だって使うことはなくなったかもしれない。ただ、代わりに裏でやるんだ。党略がより陰湿になったな」。

 戦後政治の大半を見つめ続けていた指宿氏は現在の政局を「混沌」とした状況であるという。「政策中心だった自民党でも、六〇年安保くらいからは国会対策委員長など、議事運営の舵取りをしてきた人間が偉くなるという出世コースができて、次の人事が読めたのだけれど、今は小泉さんみたいな人が突然首相になる」。では、その混沌とした状況で、私達がいかに政治に関わるべきなのか。「情報公開がこれから進み、情報は公になっていく。その時に、なんとなくやさしそうな人を指導者に選ぶのか?それとも、本当にわれわれのためになる人を選ぶのか?それ如何が、この『国の行方』を決するかもしれない」。

 指宿氏のまなざしはやさしくもありながら、強い光が宿っている。その光は、相対して話を聞いている私達への問いかけであるように思われた。「あなたは、どう生きるのですか」。そう聞かれている気がした。

取材 渋谷朋子 文  宮田清彦         

 

 


指宿清秀(いぶすき・きよひで) 1927年2月18日、鹿児島生まれ、奄美大島育ち。43年陸軍士官学校入校。46年、法政大学法学部政治学科入学。49年、参議院事務局入局。議事部長、事務次長などを歴任。81年、第9代参議院事務総長就任。86年、国立国会図書館館長。90年退官。99年勲一等瑞宝章受賞。現在、財団法人奄美奨学会理事長。  

 



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