山崎光雄会長が法政大学二部に入学したのは昭和二十九年四月、一ヶ月後には西武百貨店に入社し、卒業まで二足の草鞋を履く。  「どこの大学にいい先生がいるか自分で調べた。早稲田か法政に行きたかったんだけど、早稲田の二部はその頃四時半から始まるんでね、池袋の西武は七時まで営業していたから山手線に飛び乗っても間に合わない。それで法政に」  会社には大学に通学していることを内証にしていた。  「書籍売場に行かしてくれと言ったけど、水産高校を卒業したからね」。爾来、食品畑を歩むことになる。  家は貧しかった。小学校二年まで東京で暮らしていたが、父親が過労で倒れ、母親の実家のある新潟県能生町に疎開することになった。中学進学は断念せざるを得ず、国民学校高等科に入学する。卒業後は地滑りの復旧工事や、静岡のミカン農家で住み込みの仕事をした。兄が教員の職に就き、家計が少し安定したので能生に戻り、能生水産高校の水産製造科を受験。二年間のブランクを乗り越え、倍率三倍の難関を突破した。  「中学生くらいから本を読むことが好きでね。図書委員になってよく東京の古書店に買いに行きましたよ」  小説家か新聞記者になることが夢だった。在学中は地元紙に短歌や俳句を投稿、また朝日放送開局記念のラジオドラマ歌詞募集にも入選している。

 「だから法政を卒業したら西武を辞めて文士になるつもりだった。それで文学部に入ったんですよ。目的はものすごくはっきりしていた」  通学と仕事の両立は大変だった。仕事の合間を見て、会社のトイレでこっそり勉強したこともあった。「しゃかりきに勉強した。僕は二部の学生だけど、夜の学生の方がいろいろ文句を言う。先生の自主休講だけは許せなかったね。当時の教科書とかノートはまだ全部ありますよ。血と汗の結晶みたいなものだからね。苦労して買った教科書、苦労して作ったノート。これはやっぱ捨てられないよね」  仕事も忙しくなり、四年間で卒業できなかったら、中退せざるを得ないと考えていた。「二年の時に会社に大学に通っていることがバレてね、営業部長から経済学を専攻したらどうかと言われたんですよ」  小田切秀雄教授や本多顕彰教授といった憧れていた看板教授が、二部の授業には出てくれなかったことに幻滅していた時期だった。文筆家になることに限界も感じていた。悩んだ末に「文士」になる夢を捨て、経済学部への転部を決意、卒業後も西武に残ることにした。

 「そのころ西武は急成長をはじめてね。大学四年の時には、食品の販売の責任者にされちゃったんですよ」  冷凍食品がこれからの食料の中核となると考え、日本の百貨店ではじめて冷凍食品売場に取り組んだ。ニチレイの木村鉱二郎会長も商品化に協力してくれた。その頃、冷凍食品といえば、まずいというイメージが先行していた。そのため、まず冷凍しても細胞組織の変わらないイカとスイートコーンを販売したところ評判も上がり、三年後には採算ベースに乗った。続いて、果物の冷凍に着手、日本で最初に「トロピカルフルーツ」が売場に並んだ。入社六年目には長崎から生きた鯛二万匹を船で輸送する計画を立てた。西武百貨店の屋上に生け簀を設け、客がすくい捕りをするという趣向だ。  「ところが輸送中に鯛がみんな死んでしまった。大失敗です。でもおかげで発憤してね、それからはもっと慎重にやるようにしたんです」

 上司も「同じ失敗を二度するなよ」と言っただけで、特にとがめられなかったという。それだけ信頼を得ていたのだろう。その後、食品係長等を経て、洋酒のディスカウントを試みる。「今では普通になっているけど、あのころ酒は絶対安くしない。それを二割引で売って他の百貨店から総攻撃を受けました」と振り返る。  食品部長、営業企画室長と二年おきに昇任、取締役池袋本店店長に就任したのは三十四歳の時であった。  「西武の池袋といえば本店だからね。取引先では若くてよく代理に間違われましたよ。『僕は本当に店長だ』ってね、そう言ってもなかなか信じてくれない」

 他の百貨店を例に取ると、本店の店長はたいてい五十代から六十代。三十四というのは確かに異例の若さであった。三年後には西武百貨店の関西進出の担当になった。しかし、その第一号店となる高槻店が開店を目前にして焼失する。原因はガードマンの放火だった。「工事再開の許認可を取るのに、東京・大阪間を一日二往復したこともありました」  関西赴任十年目で東京に戻り副社長を歴任。半年後のある日、堤清二会長から言われた「君が社長をやれ」の一言で、西武初の生え抜き社長になった。  「僕は嫌だと逃げ回ってたけど、新聞にリークされちゃってね、本人が了解する前に新聞辞令で観念させられたわけだよ」  就任後、最初に手がけた仕事は茨城県筑波郡桜村への出店だった。科学万博が行われた、今のつくば市だ。当時は「村」であった。他の百貨店はいずれも出店を見合わせた。万博を一過性のものと考えたのである。

 「筑波を上からヘリに乗って見るとね、国のお金が万博のために入ってるのがわかるわけ。道路付きがものすごくいい。当時はまだ百貨店でそんな冒険するところはない。僕はみんなに大反対されたけど、だめだったら責任負い、辞めると言って強行したよ」。大きな駐車場が決め手だったという。  「郊外型」は業界の三愚行とまで言われたが、高槻や大津で成功した郊外型ショッピングセンターを造ることに自信はあった。社長を務めていた六年間で有楽町の二号館と川崎店を開店、全店で年間約十五パーセントも売り上げを伸ばした。任期満了を迎えた年にはついに売り上げ一兆円を達成。気がつけば百貨店業界の首位に立っていた。しかし、達成感より空しさが残ったという。

 還暦を迎えて一線から退いたのも束の間、ベネッセから新規事業を担当してほしいと声がかかる。介護保険が導入されてもホームヘルパーが不足している現状を知った山崎会長は、ホームヘルパーの養成講座事業を構築。これからの時代は福祉が大事だと考えた。法政大学の理事会でも福祉学部の必要性を説き、ついに来年度から現代福祉学部が多摩キャンパスに新設される運びとなった。

 「今の学生にいちばん必要なのは自己の確認。そして自分のアイデンティティをきちんと持つこと。将来何をやりたいのか、そのために自分に足りないところは何なのかを確認し、それを補うのが大学での勉強ではないか。そういうことを通じて、勉強を重ねて世の中に出ていくべきだ。もっともっと法政の卒業生が活躍してほしい。僕なんか真剣にそれを願うよ」

 

 


 山崎光雄(やまざき・みつお) 昭和八年東京生まれ。昭和二十九年四月法政大学二部文学部入学、翌五月西武百貨店入社。二年後に転部し昭和三十三年法政大学経済学部を卒業した。西武百貨店では食品部長、営業企画室長、取締役池袋本店店長、常務等を経て、昭和五十九年代より代表取締役社長を歴任、平成二年より相談役、パルコ代表取締役会長等を経て、平成五年に退社。翌六年よりベネッセコーポレーション取締役会長に就任し現在に至る。法政大学理事。  

 



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