遠藤光男判事が旧制の法政大学予科に入学したのは、昭和二十二年四月、戦後間もない頃のことであった。  「十歳違いの兄が法政の出身だったのですよ。小学生の頃からその兄に連れられて神宮球場の学生席に紛れ込み、『法政おお我が母校』と歌っていたせいか、根っからの法政ファンでした。そのようなわけで、大学卒業後、太平洋戦争末期にフィリピン・ルソン島で戦死した兄の足跡をたどるような思いでそのまま法政に入学したのです」

 戦後の学制改革のため、新制教養部に移行入学した後、昭和二十五年春、法学部に進学した。「いよいよ学部進学という時に、学部長の先生方が木月(教養部)に来て各学部の宣伝をやるわけよ。是非うちの学部にとね。私は、時の法学部長中村哲先生の話に非常に惹かれるものを感じましてね。法学部に進んだわけです」  サークルは、予科・学部を通じて弁論部に所属していたほか、法学部に転じてからは法律相談部に籍を置き、さらに法学研究団体「知新会」の再建にも携わった。弁論部の先輩には、その後NHKアナウンサーとして一世を風靡した酒井広氏、同期には、朝日新聞記者として健筆を振るった蔵敷正義氏らがいた。また、法律相談部の先輩に現校友会長柳澤千昭氏(元大阪高等裁判所部総括判事)、同期に安田生命保険相互会社・現代表取締役会長大島雄次氏、全日空総務部長を経て新東京空港事業株式会社社長に就任した津川宗久氏ら錚々たるメンバーがいた。

 「いずれのサークル活動も、腰掛け的なものではなく、ほんとうに夢中になってやっていましたよ。すばらしい友人たちに恵まれ、互いに切磋琢磨し合いながら、充実した青春時代を過ごしたものです。当時、中央大学辞達学会(弁論部)に所属していた海部俊樹氏(元首相)らと共に口角沫を飛ばしながら、天下国家を論じ合ったことなども、今となっては貴重な思い出だよね」と懐かしく往時を回想する。

 卒業後、二年間の司法修習を経た後、昭和三十年春弁護士登録をしたが、同時に、法学部兼任講師に就任し、母校の教壇に立つことになる。中村哲教授やゼミの恩師薬師寺志光教授の推挙によるものであるという。  「忘れもしない。四月の初めなのに雪が降っていた日のことでした。梅が丘の中村先生のお宅に参上したところ、『弁護士になった以上、金儲けに専念するようなことはせず、もう少し勉強せい』と言われ、ゼミを持たせてもらうようになったのだが、この時ほど、恩師の配慮の有難さを実感したことはない。正に、良き師・良き友に恵まれていたわけですよ」

 爾来、四十年間にわたり弁護士と大学講師という二足の草鞋を履いた生活が続いたが、昭和五十六年四月から三年間、さらに司法研修所民事弁護教官としての重責が加わることになる。  「さすがに、三足の草鞋を履くことは無理だと考え、途中で余程願い出て法政の講師を三年間休ませてもらおうと思ったんだが、どうにか頑張り抜いてしまいましたね」と目を細める。  平成六年暮れ、最高裁判所判事に推挙されながら、一時は固くこれを辞退し続けてきたという。  「私が翻意したのは、何といっても、予科時代からの盟友・大島雄次君からの強い説得によるものでした。また、戦後初代の最高裁判事として活躍された法政の大先輩・今は亡き小谷勝重先生との出会いなくして、私の決断はありえなかったかも知れませんね。小谷先生とは、先生が在学中に創設された知新会の会活動が休眠状態となっていたため、これを再建しようとしたことから面倒を見ていただくようになり、よく東北沢の公邸や霞が関の赤煉瓦旧庁舎の裁判官室に伺ったものです。今にして思えば、冗談半分のお言葉だったのでしょうが、ある日のこと、小谷先生から『君も将来法政出身の二代目の最高裁判事になるよう頑張れ』と言われたことをふと思い起こしたのです。私如き者が最高裁判事になれば、法政の後輩諸君にとって多少の刺激となりはしないだろうか。そのような思いにかられたこともあり、結局この推薦をお受けしたわけです」

 かくして、その翌年二月、法政出身二代目の最高裁判事が誕生することになるのだが、最高裁判事としての仕事ぶりについて、遠藤判事は次のように語る。  「仕事の内容は激務としか言いようがありません。民事・刑事の上告事件、抗告事件その他の事件を合わせて年間六千件以上の事件を僅か十五名の裁判官で処理しなければならないからです。また、最終審であることを考えると、責任の重さに押しつぶされそうな思いにかられることもしばしばです。しかし、これほどやり甲斐のある仕事はまたとないでしょう。常に謙虚な姿勢を忘れずに、しかし、時には勇断をもって、誠実に一つ一つの事件を処理していくよりほかないと思います」

 遠藤判事が所属する第一小法廷の壁には、裁判官席と向かい合う位置に、日本画家の巨匠・浦上玉堂画伯の風景画『山雨染衣図』が織り込まれた京都・龍村美術織の緞帳がかけられている。円熟の境地に達した玉堂の手によって、雄大な自然美が見事に描かれたものであるが、この絵は、どのような立場にあろうとも、何事にも謙虚でなければならないことの大切さを語りかけているようでもあった。ちなみに、浦上玉堂画伯は、遠藤判事が日頃敬愛する恩師・中村哲元法政大学総長の曾祖父に当たられることも、何かの因縁といえよう。

 「人生の出会いを大切なものとして欲しい。そして、互いに刺激し合えるような交友関係を築き上げることによって、この大学に学んだことをいつまでも誇りに思えるような充実した学生時代を過ごして欲しい」。遠藤判事は、最後にそうメッセージを残した。

 

 


 遠藤光男(えんどう・みつお)  昭和5年9月13日東京・虎ノ門生まれ。昭和27年法政大学法学部卒。研修所7期。法政大学兼任講師、研修所民事弁護教官、日弁連司法修習委員長等を歴任。平成7年最高裁判所判事就任。  

 



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