学校は無欠席、入社後も公休取らず   大島雄次会長が法政大学予科に入学したのは、昭和二十二年。その後予科在籍中に戦後の学制改革が行われ、新制教養部へと移行入学する。法学部進学後は法律相談部に入部し、夏休みに地方の百貨店などで、校友会の後援を受けながら一般の人たちの法律相談に無料で応じた。  「それは私らの勉強であった。そういうことを通じて、自分たちの法律のレベルを高めようとしたわけ。これは本当の『実践法律学』だよな」。実際に法律問題に遭遇して勉強する、いわば「ケースメソッド」だ。予科時代からの同級生で、後に最高裁判所判事として活躍する遠藤光男氏(『交遊録』第五回)と共に「知新会」という法学研究団体の再建にも携わった。

 「その当時『関東大学法律討論会』っていうのがあったんだ。これは八つの大学が年に四回くらい討論を競う会で、各大学の教授が審査員をする。私はそれに選抜で出場してね。テーマが決まってて、よその大学の意地の悪い質問にどう答えるか、それを採点するわけ。確か憲法と条約、どちらが優先するかというテーマでは、条約優先論で優勝しましたよ。法政で他の大学と法律の専門討論やって勝ったというのは、遠藤君と私だけじゃないかな」

 終戦まもない当時は、学問に戻れることが夢のような喜びだったが、今からは想像もつかないほど惨憺たる社会状況の中での通学であった。夏休みや冬休みには誰もが学費を捻出するために一生懸命働かなければならない。それでも学校が始まれば授業へは必ず出席した。 「だから大学に行って教員が勝手に休講にすると、皆怒ったんです。『高い月謝払って先生が勝手に休むとはなんだ』と」

 サンフランシスコ講和条約締結の前年、大学四年の時に法学部自治会の委員長を歴任。日本はまだGHQの間接統治下にあり、大学ではいわゆるマッカーシー旋風が吹き荒れ、左翼系教授へのレッドパージ(赤狩り)が行われていた。  「左だろうと右だろうと関係ない。大学は学問の自由があり、占領軍が大学に干渉するのはけしからんと学生皆が立ち上がった。おかしなストライキやったりしてね。今みると滑稽だよ、試験ボイコットなんて馬鹿なことやってた。試験や授業をボイコットしたってアメリカはこたえない。こたえるのは我々自身だ。でもね、そういう必死の抵抗を示したんだよ。そしたらね、当時の法大総長、大内兵衛先生が私に『総長室へ来い』って言うんですよ。それで『しっかりやれ』って言うのかと思いましたらね、あの人は戦前軍部に抵抗した人なんですけど、『君たちのやっていることは間違っているよ』と言った。『君たちそんなことをやって国を守れると思ってるの?良いかね、国を守るのは学問ですよ』と」

 あの頃の運動は、安保の時のような左翼運動とは違い、国家を守りたいという若者の純粋な気持ちによるものだったと振り返る。総長室を後にした大島氏は、すぐにマイクを握り全学部全教室に向かってボイコットを中止するよう演説した。「それから私はね『国を守るのが学問だ』という言葉が今のこの歳になっても頭から離れないんです。それをずっと大事にしてきたから、その後安田生命の社長になれた。この会社が『教育の安田』って呼ばれているのは、教育設備をこのくらい持っている会社はないからなんだ。従業員の教育とか、企業を守るのは教育だと思ってるんだよ。同じことなんだけど、国家を守るのも教育なら、会社を守るのも教育。人間ってのは生涯勉強せなあかん。つまり磨き続けなればならない」

 大島氏にとって良き教育者はまず母だった。母は小学校の時には学校を絶対に休ませてくれなかった。そこには真面目で手を抜かない人間になってほしいという母の願いが込められていたという。  「私はね、母親にもの凄い教育を受けたんだよね。風邪引いて熱出るでしょ、そしたらお袋はねんねこ半てんに私を背負って学校行っちゃうのよ。そして教室で先生に『この子ちょっと風邪なんで私背負ったまんまで教室で座って聞きます』って。それで私は休まない人間になっちゃった。この会社入っても公休は取ったことない。生き様だからね。だから母親の教育って大きいな。自分の接した人から受ける影響って大きいでしょ」  人間はいろいろな人と接しなければいけない。出会いが自分に影響を与え、それ自体が勉強になる。そうして人間は年輪を刻んでいき、人間を大きくしてくれるのだと語気を強める。

 「遠藤君なんかとは本当に『良き友』で、お互い向上心を持って切磋琢磨してね。その後私が役員に就いた頃、彼に『どうせなら社長になったら』と言われ、君こそ最高裁判事になれって、そんな話をしたんですよ。二人ともその時は可能性があるとは思っていない。思わないけどそう言い合ってた。それが切磋琢磨だな。『良き師』にも出会った。在学中に新任した薬師寺志光先生。教授の別荘まで行って泊まったり、みんなでお金出し合って先生と一緒に飲んだり。良き師・良き友に後悔はない。だから私は法政にすごく愛着をもっているよ」

 卒業後は良きライバルでもあった遠藤氏と同じく大学院に進学。できれば法律の専門家になるつもりだったという。当時、大学院に進んだ十数名のうち、その半分以上が法曹界に入った。しかし、大島会長は翻意して実社会に出る決意をする。「サラリーマンになったのは私とあと二、三人じゃないかな。本当にこれ以上親に迷惑かけたくなくてね」  当時の「三白景気」の中、優等生たちがセメントや砂糖、あるいは鉄鋼業界に次々と就職していく中で、従業員が三千人程だった安田生命相互保険会社に入社したのには理由があった。

 「この会社の創業者の安田善次郎って言う人は、私と同じ富山の出身なんだよ。私の生まれた実家の近くのご出身で、その名は子供の頃から聞いていた。だから安田って名前にはもの凄い愛着があってね」と目を細める。江戸に出て丁稚奉公から立ち上がり、両替商を経て安田財閥(後にGHQにより解体)の基礎を築いたのが安田善次郎だった。彼は「進取と堅実」という言葉を遺訓として残している。チャレンジ精神旺盛な一方、堅実さもないといけないという意味だ。法政の「進取の気象」にも通じる。

 「ベンチャー産業って清成先生が言ってるけど、企業っていうのはどんどん大きくなるのね。立派な会社だからとか、大きいからといって安全かと言えばそうでもない。その会社に改革のエネルギーがあるかどうかだな。今百年も残っている会社というのはね、改革してるんだよ。これからは金融ビッグバンの中で、安田生命も伝統にあぐらかいてちゃいかん。やっぱり果敢にそういう変化に向かっていかなきゃね」

 

 


 大島雄次(おおしま・ゆうじ)  昭和四年富山県生まれ。昭和二十二年法政大学予科入学。昭和二十九年法政大学大学院卒、安田生命保険相互会社入社。阪神支社長、

常務取締役大阪本部長、専務取締役副社長営業総局長等を経て、平成五年から代表取締役社長を歴任。今年四月から代表取締役会長に就任した。法政財界人倶楽部会長。

 

 


 


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