中学校に入学して以来、私たちは「英語」という世界の公用語を学んでいることになる。日本の「読み・書き重視」の英語教育体制への批判もクローズアップされている今、英語を学ぶ目標をもう一度自分なりに考え直してみた。

 私は国際文化学部という環境柄、英語について考える時間がおおい。そもそもの英語を学ぶ大義名分は「国際化社会への対応・適合」に尽きる。しかしそんな手の届かない抽象概念では目標にすらならない。

  先日外国人のご夫人に電車で席を譲った時、「アリガトウ」とたどたどしい日本語で礼を言われた。私はそれまで彼女が英語をしゃべっているのを聞いていたので、英語で「どういたしまして」と返すと、彼女の顔がぱっと明るくなった。その後、未熟ながらも言葉を交わすことはできたが、自在に意思疎通はできていたとはとても言い難いものであった。高揚感と同時にもどかしさが込み上げてきた。

  これからの国際社会には英語が不可欠であろう。だが当然、ただできるようになれば言い訳ではない。「国」という小さな枠組みにとらわれずに、個々人の思想を共有する手段として英語を学んでいるのだ、と私は思ってきた。しかしこれは大義名分を自分なりに解釈したに過ぎず、「英語を学ぶ目的」それ自体には程遠い。先の見えない道のりへの恐怖にはいまだ消えない。

 英語と日本語は語順などの共通点が希薄、母音の数の不足などを理由として、一般に日本人は英語向きではないとされている。そんなデータを耳にしたことがある。しかし私は英語を学ぶことを断念したりはしないだろう。それはあの電車の中で、曲がりなりにも通じた自分の「今まで」を信頼して、「これから」を積み上げていける決意と自信が少しだけついたからだ。理由と目的をもつには私はまだ早すぎる。それらは決意と自信が本物になった時にこそ、あるべきもののはずだ。

 

 


   

 


 

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