山中前監督インタビュー


 

 九年間法政大学野球部監督を務め、昨年限りで退任した山中正竹氏が横浜ベイスターズ球団専務取締役に就任した。オリンピック監督経験もあり、選手としても指導者としても申し分ない成績を残したアマチュア野球界のエリートが、事実上のゼネラルマネージャーとしてプロ野球界へ挑戦することとなる。兼任していたアマチュア界の数々の肩書きをすべて捨て、異例の転身を遂げる山中氏に法大監督時代の思い出と共にプロへの挑戦の意気込みを伺った。

法大監督時代

――平成六年に監督就任した当初のチームの印象はどのようなものでしたか。

 優勝から離れていたが、戦力的にも、他大と比較しても優勝できないチームではないと思いました。ただ、特にピッチャーのリーグ戦経験者がいないに等しかったので二年くらいの時間がかかるかな、と思いました。

――どのようなチーム作りを目標とされたのですか。

 必ずしも強いチームを作ることがすべてではなかった。当時評価できる状況でなかった。進級、卒業などの大学生としての学問においても、誇りをもてる野球部を作る、というのが私の思いでした。その思いは九年間持ち続けました。そういう、いいチームを作ることが勝つための最短であると考えていました。

――目標のチームを作るためにとった対策はどのようなものでしたか。

 私は、スカウティングというのは一切しなかった。「法政大学の野球部で野球をやりたい」、「強くていい野球部を作ろう」という思いを持った人に来てもらって一緒に野球をやりたい、と思った。九年間チームを作ってきた中で、そういう思いを持った人たちが法政大学に入ってきただろう、と信じています。

――野球に取り組む姿勢についてはどのように指導されたのですか。

 大学生であれば自分で目標を立てて自主自律の精神が無ければいけない。指導者が細かく指導しないのを冷たい、楽だ、と取る人もいるかもしれない。しかし私は何を聞かれてもかまわないくらい勉強はしました。準備はする。あとは選手達の自主性に任せる、というのが法政大学の監督のスタイルだと思っていました。

――アメリカ遠征や留学生の受け入れなど、積極的に世界と触れる機会を設けられていましたが、世界に触れることで得られるものというのはどのようなものがありますか。

 あまり大学に行かず、交遊関係が野球部だけなど、学生たちが非常に狭い世界で生きている、ということを実感していました。各国それぞれ、スタイルや生活が違い、野球観も違う。そして、それぞれが誇りを持っている。そういう世界に触れて各国の考え方を追及していくことは重要なこと。学生たちにそういうチャンスを与えたいと思い、国際性を彼らにも要求した。

――今までで一番印象深い選手や試合はありますか。

 最初に優勝したとき(平成六年秋季)に、内海という選手がいた。野球のへたくそな、ぶきっちょな男だったが、本当に一生懸命やる。(グランドと隣接する)法政二高の守衛の人が「毎晩建物の影でバットスイングをしている男がいる。なんていう選手ですか」と聞きに来たこともあった。その男が最後にレギュラーポジションを取ったり、優勝決定戦で劇的なHRを打ったりした。十一シーズンぶりの優勝だった。みんな顔をくちゃくちゃにして泣きながら優勝を喜んだ。就任した年にいきなり、大きな記憶に残る優勝でしたね。

――山中さんの野球人生の中で法大の監督を務めた九年間というのはどのような意味を持ちますか。

 大学生という将来性をもった若い人たちと接することができてラッキーだった。また、何年か経って、私の考え方をひとつの基準にして自分の考えを持った彼らと、野球について話しあえたら、最後は越えてくれたら、と思っています。

プロへの挑戦

――現在、横浜ベイスターズで新たにプロの世界に挑戦されていますが、要請がきたころには野球部監督の退任は決めていたのですか。

 要請がきたのは夏ごろですね。監督在任七年くらいのところで、いつまで監督をやったらいいのか、ということを強く考え始めた。だんだん自分の気持ちに妥協やゆるみが出てきてしまった。これでは指導者として学生に失礼だから、意欲の高い人に譲ったほうが学生にとって幸せだと思うようになった。九年目のスタート時点で最後にしようと考えていました。

――今までの肩書きを捨てて新たな挑戦をするというのは、大きな決断だと思いますが、どういう思いで決断されたのですか。

 たまたま大学の監督を終える時点で、球団経営に携わり、プロの世界を知れるチャンスが来た。野球を学問として研究する上で、ビジネスとしての野球、プロ野球選手とは、ということを自分が中に入って体験できる。その体験は、思い上がりかもしれないが、今は私だけしかできないだろう。ならば、そういう世界で力を試してみよう、と思った。もし、肩書きが欲しかったり、お金が欲しかったら大学に残っていただろうと思います。

――プロの世界に飛び込まれて数ヶ月たちましたが実際入ってみていかがですか。

  私はかねてから、プロでやっている人も皆、元はアマチュアだったのだから、プロもアマもない、と思っていた。しかし歴史的背景から来る、日本独特なプロ・アマ問題というものがある。これがプロ・アマの壁なのだということを実感しています。アマチュアから転身した私が、プロの世界で普通に見られるのに、二、三年かかるかな、と思っていたけれども、今はそれ以上に相当かかるな、と思っています。それをできるだけ短くしていくというのがこれからの私の宿命だろうと思います。

――新里捕手を主将とした新たな法政大学野球部にコメントをお願いします。

 野球部にはどんどん変わっていってもらいたい。法政大学は今、社会的に高い評価を受けている。みんなの変えていこう、という意欲の結果が評価につながっている。変わっていこう、高めていこう、という努力をすることが大切だろうと思う。それが、勝ち続けたり、誇りを持てる野球部に間違いなくしていくだろうと思う。そういう野球部に周りの人が声援を送らないはずがない。高校生がそういう野球部で野球をやりたい、と思わないはずがない。そういうチームになってもらいたい。

 新里は私と金光(新監督)の二人から適任だと思われている主将。そういう主将は七、八年に一回しか生まれない。応援してるよ。

 

プロフィール

一九四七年四月二十四日、大分県生まれ。

 法大選手時代には投手として東京六大学野球記録の通算四十八勝を挙げる。卒業後、住友金属に入社し、六年連続都市対抗出場を果たす。八一年に監督となり、翌年都市対抗優勝。その後、九〇年から日本代表監督となり九二年バルセロナ五輪では銅メダルを獲得。日本オリンピック委員会選手強化本部委員、全日本アマチュア野球連盟強化本部長、アテネオリンピック対策委員会委員など、多くの肩書きを持ちアマチュア界になくてはならない存在となる。九四年からは法大野球部監督に就任し、九季優勝から遠ざかっていたチームを一年目の秋に優勝に導くなど、九年間で七度のリーグ優勝、九五年には全日本大学選手権大会を制した。九九年からは法大工学部教授に着任。今年から、アマチュア界での肩書きをすべて捨て、横浜ベイスターズ球団専務取締役に就任。

<取材>   石井 悠美子

 

 


   

 

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