社会学部 藤田真文教授に訊く

「何故実感できないのか?」


 ―何故、私達は国際問題を他人事のように感じるのか、というテーマでお話を伺います。戦後の社会における価値意識の変容など、マクロ的な要因については説明が付きそうな気がするのですが、個人に引き付けたレベルでは、あまり納得がいきません。

 例えば、同時多発テロ当日ニュースの視聴率は普段よりも極端に高い数字を示しましたが、関心が持続したようにはあまり思えません。

 ニュース全体に言えることなのですが、ニュース報道の中で扱われる出来事は九九%よそごとだと思うんですよ。

 五感で確認できる現実世界に対して、ニュースの世界は視覚、聴覚による表象の世界であるということが言われています。しかし、現代社会においては、表象の世界の情報が圧倒的に多い。しかし、ニュースの世界はほとんど現実世界とは、関係ない。

 僕はむしろ、どうして関係の無い問題なのにニュースを一生懸命見るのかな、という疑問があります。もちろん、国内、国際政治などの社会の問題は個人に関係があるという意見もあるんだけど、多分、それはある程度、建前だと思う。すべてのことに配慮して生きていけることができる人間はどれくらいいるのか?

 自分の生活の脈絡と国際問題を繋げることが出来る人は、他人事のようには思わないのだろうけど、基本的には、国際問題について他人事のように感じられて当然ということが僕の意見です。

 9・11の問題について言えば、国際社会秩序の問題として位置付けられたわけではなく、むしろ、自分との生活の接点という意味で都市の中で、ああいう災害に遭うのは怖いというようなショッキングな映像としては捉えたんじゃないかと思う。

  ―しかし、9・11の事件と先進国によるアフガニスタン攻撃は深い関係性があると感じている人は多いように思います。ショッキングな映像としてだけ捉えていたとも思えませんが。

 それが、誰の説明かと言えば、アメリカの世界戦略の中の説明ですよね。日本のメディアも映像を説明する物語として、それを付け加えた。だから、僕らは9・11とアフガニスタン攻撃を一直線に繋がったものと認識している。

 ただ、それを一直線に結び付けて、それを受容していいのかという問題がある。例えば、イージス艦の派遣は、テロ対策として、テロ国家であるイラクを攻撃して、世界秩序の維持に貢献するべきだという説明の中で解釈していると思うの。で、イージス艦の派遣を生活実感としてどれだけ結び付けて考えているのでしょう。ニュース全体としては、九九%くらいは実感していないということから始めた方がいい。それがニュースの解釈を鵜呑みにしないことを導きます。国際問題なんかに、関心をもって当然なんだという価値から脱却しないといけないと思う。

 戦争報道ということに限定して話をすると、湾岸戦争でちょうどイラクがクウェートに進攻し、いまだ多国籍軍は展開していない時期の事です。当時ブッシュは、「今月二日、 イラクがクウェートを侵略した」と発表した。一方、イラクの国営テレビは、「イラクとクウェートは一つの国家である」と発表した。どちらが正しいのか? その答えは、何年に根拠を置くかで全然違う。イラクがクウェートを侵略したという言説しか日本のメディアは受け入れなかったが、それはある時代の、ある世界秩序の中のある立場からの説明でしかありません。そういう立場からしか、その後に起こった多国籍軍の進攻を説明していません。

 それで、国際問題に関心をもつということは、その枠組みもまた、同時に受容することになります。世界には多様な解釈があった。日本人は多様な解釈ができたかもしれない。しかし、日本では、先進国発の言説を受容する人が大半を占めていて湾岸戦争に反対という意見はほとんどなかったわけですから。

 それと、もう一つは、今の戦争自体が非常にバーチャルだということ、そしてジャーナリストが手つかずの事実を発見できる可能性がものすごく狭められていることが考えられます。 現代の戦争において、兵隊がミサイルを発射して、どこに着弾するのかいうことは、自分の目で確認することはない。実際に死体を見るわけではない。つまり、戦っている人でさえ、現実の世界と戦争が結び付いているとは言えない。だから、さらに間接的に情報を与えられる僕らはさらに実感をもてないんじゃないか。

 どうしてそうなったのかというと、アメリカにおける戦争報道の反省です。ベトナム戦争当時、ジャーナリストが実際に肉弾戦の写真を撮りましたが、そこにおいて戦争の実態が明らかになってしまいました。その結果、反戦運動が盛り上がってしまった。だから、湾岸戦争の時には、徹底的な報道管制を敷いた。軍人に対するインタビューも許可してはいるんだけど、インタビューされる側の人間は、不利な情報を流さないようにキチッと自己表現の訓練をされた人がされてるのね。だから、それが自由な発言かというとそうではない。

 そこで、戦争の実感をもてというのは無理な話。見てる時点で真偽を判断するのも難しい。

 ―しかし、表象の世界を受容しながら、生きていかなければならない状態は続いていきます。非常に生きにくい社会ですね。

 限定的な価値観の中で暫定的に行っている決定だということを考えなくてはならないと思う。

 問題なのは、暫定的だからといって何もしないというのも間違いで、現代の人間は、バーチャルな情報の中で、何かを決断しなくてはならない、という状況だと思う。

 コピーの中でしか選択できない現状を踏まえて、決断しなくてはならないということを認識すべきです。

 ―そうなると、自分で新たな言説を作っていかなくてはならないということでしょう。ただ、それには、主体的に情報を探し出そうという努力が必要になりますね。

 多分、別の次元から来るオルタナティブな説明とか枠組みがどこかにあって、それを受容できるかどうかを選択するということでしょうね。ただ、それはすごく難しいことで、強い動機がないと努力して情報を探そうとしないでしょうね。だから、オルタナティブな選択ってのをできた人がNGOなどに参加すると思うのね。むしろ九九%は他人事だって思った方が、社会の主要な言説から免れるってこともあるよね。だから、九九%他人事の方が正当で妥当な感覚なんじゃないかな。よそごとっていうとすごい無責任かもしれないけど、全てに責任を持つ方がむしろ危険ですね。 (専攻・コミュニケーション)

⇒関連記事 対話で開かれる世界への関心 〜NGO活動から〜

        関心の深化がもたらす新しい視点 〜イスラエルの体験から〜

 



 

COPYRIGHT(C)法政大学新聞学会

このホームページにおける全ての掲載記事・写真の著作権は法政大学新聞学会に帰属します。

無断転載・流用は禁止します。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送